人間としてのベートーヴェン
2025/01/22
笑顔あふれる生徒さんが通う、富士市の人気ピアノ教室
フェリーチェおさだ音楽教室の長田です。
人間、ベートーヴェンは単に作曲家としてではなく
今から250年前に生まれた一人の人間としての
ベートーヴェンをご紹介します。
ベートーヴェンにも自分の趣味があり、
行きつけのお店があり、
希望に燃えた青春だってありました。
こうしたさまざまな顔に迫っていきます。
今回は「ピアニストとしてのベートーヴェン」です。
「あのベートーヴェンとかいう若者…まるで悪魔だよ!
あんなピアノの演奏は今まで聴いたことがない!」
ベートーヴェンのピアノを聴いた人が漏らした言葉です。
今でこそベートーヴェンは作曲家として知られていますが
当時はピアニストとしての腕前もなかなかでした。
そんなピアニストとしてのベートーヴェンの姿を辿ってみましょう。
1770年ドイツ西部の小都市ボンで生まれた
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。
生まれた時から
音楽が身近にある生活を送っていました。
お父さんのヨハンは宮廷の歌手、
さらに同名のおじいさんルートヴィヒはケルンで
宮廷楽長をしていました。
因みにひいおじいさんのミヒャエルはパン屋さんでした。
ルートヴィヒはそんなお父さんの企みをよそに、
家のクラヴィコード(キーボードほどの大きさの楽器)で
即興を楽しんでいました。
さらにオルガンを習い始めるや否や
11歳で教会のオルガニスト、
13歳でチェンバロやフォルテピアノ
(ピアノの前身の楽器)を弾きながら
楽団を指揮する仕事を任されるようになりました。
これはまさに彼自身の努力の結果でした。
自信をつけたベートーヴェンは
1792年(22歳)に拠点をドイツのボンから
オーストリアのウィーンへ移ります。
日本だと函館から東京と同じくらいの距離です。
大都会のウィーンで新参者だったベートーヴェンは
”ドイツのどこかから来た田舎者”扱いされてましたが
下宿先のリヒノフスキー邸でピアノを弾くと
「なんだか新しいスタイルのピアノを弾く若者がいる」
と噂になりました。
1795年(25歳)にウィーンのブルク劇場にて
自作の『ピアノ協奏曲第2番』を
演奏する機会に恵まれた際には情熱に満ちた
演奏だったそうで
翌日のウィーン新聞に「ものすごい拍手は鳴り止まなかった」
と書かれるほどでした。
同時代の演奏家、ザイフリートは
「ベートーヴェンはピアニストとしてトップクラス」
ツェルニーは「繊細さそして凄まじいパワーとテクニックを持ち合わせていた)」と評価しています。
しかし彼のピアニストとしてのキャリアは長く続きませんでした。
1802年(32歳)で難聴を理由に遺書を書いてから
耳の状態は悪化の一途を辿ります。
それでもピアニストとしての活動を続けましたが
44歳に『ピアノ三重奏曲「大公」』を初演した時には
「フォルテがあまりに大きすぎて、ピアノの弦がカチャカチャ鳴り響いた」そう。
自分の弾く音の大きさがわからないほど
難聴が悪化していたのです。
結局、翌年に行われた歌曲
『アデライーデ』の初演を最後に
ピアニストを引退しました。
悲しい「運命」ですね。
次回に続きます。
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